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【弁証法とは】ヘーゲル「精神現象学」を分かりやすく解説

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現代社会を生きる我々は、社会が個人の思想や行動によって構成されていると考えがちです。

しかし、ヘーゲルはその主張を覆し、人類を1つの種という観点から観察します。

彼のユニークな視点は、読者に様々な洞察を与えてくれるのと同時に、画期的な思考法を伝授していくれます。

この記事では、そんなヘーゲルの「精神現象学」について解説してきます。

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ヘーゲルとは

Wikipedia参照

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルとは、ドイツの哲学者です。

ドイツ観念論を代表する哲学者であり、フィヒテやシェリングと並んで称されます。

彼の主な著書には、「精神現象学」「大理論学」「法哲学」などがあります。

ヘーゲルは1770年に下級公務員の息子として生まれます。

学問の才能に恵まれ、テュービンゲン神学校に入学し、後のドイツ観念論の哲学者であるシェリングなどと親交を深めます。

学校を卒業後は、家庭教師やイェーナ大学の私講師を担当します。

ナポレオン軍による侵略により職を失ったヘーゲルは、ニュルンベルクで新聞編集者となります。

この時期には結婚し家族を得ており、またギムナジウムの校長も務めました。

1816年にはハイデルベルク大学の教授として就任して、研究に没頭する日々が続きますが、1831年にこの世を去ります。

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ヘーゲル「精神現象学」の解説

「精神現象学」(1807)はヘーゲルによって書かれた哲学書です。

非常に難解であることで知られ、また現代的な見解とは大きくかけ離れていることから、理解するのに骨が折れる作品となっています。

しかし、彼の壮大かつユニークな哲学思想は非常に魅力的であり、多くの人に愛されています。

以降、本書について詳しく解説していきます。

ヘーゲル哲学の全体像

一般的に哲学とは、様々な主張が衝突している、という観点から考えられます。

例えば、大陸合理論とイギリス経験論が対立しあい、論争を繰り広げるようにです。

しかし、ヘーゲル哲学はそれら個別の衝突に注目するのではなく、全体を俯瞰する視点を持ちます

対立する哲学それぞれに価値があり、それらの衝突がだんだんと真理の発展を促す、という考え方です。

ヘーゲルは、一面的ではなく全体的な視点から、世界の真理を示そうとしたのです。

「精神現象学」という作品は、人類史における長い間の人間意識(精神)の発達を研究した作品となっています。

精神 = 人間の意識

現象学 = 現れているものについての学問

ヘーゲルは本書を通して、人類が種としてどれほどまで発展したのかを明らかにします。

そして彼は、文化や哲学の豊かさは、大きな一つのうねりに含まれる、という観点から考察を進めます。

例えば、科学の発展や経済の成長は人間の種としての発達を示すものではありません。

そうではなく、意識の目覚めや、その意識が表現される政治や芸術、書物などにこそ種としての発展のヒントがあるのです。

ヘーゲル弁証法

個別ではなく全体を見るヘーゲルの哲学手法は、ヘーゲル弁証法と呼ばれます。

テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、ジンテーゼ(含)という言葉を用いて構成されるこの弁証法は、現代においてもその有用性を保持しています。

我々はまず、テーゼとアンチテーゼを用意します。

例えば、テーゼとして「自動車は排気ガスを出すから有害である」、アンチテーゼとして「自動車がなければ移動できない人がいる」を挙げましょう。

すると、ジンテーゼとして「排気ガスを出さない自動車(電気自動車やハイブリッド車)を作ろう」が生まれます。

このように、テーゼとアンチテーゼという対立する2つの主張を合体させることで、ジンテーゼという1つ高次元の主張を生み出すことができます

なお、哲学界における具体例では、大陸合理論とイギリス経験論の2つのテーゼが存在していた時に、ドイツ観念論というジンテーゼが生まれました。

アウフヘーベン

ヘーゲル弁証法の基本的な考え方をアウフヘーベンと言います。

ドイツ語で「上に持ち上げる」という意味を持つアウフヘーベンは、先ほど解説したテーゼとアンチテーゼを合わせる作業を指します。

対立する2つの主張を包含して議論を進めることができるこの手法は、現代社会においても極めて有効と言えるでしょう。

なお、アウフヘーベンは日本語では「止揚」「揚棄」などと呼ばれます。

絶対的な知識の獲得

ヘーゲルは絶対的な知識を獲得することで、世界の真理を完全に理解することができ、そのためにはあらゆる要素を取り込む必要がある、と考えます。

ここで言うあらゆる要素とは、物理的なものから、目には見えないような論理や真理などです。

彼は、物質世界において観察できるものだけではなく、現象界(目には見えない想像の世界)にも目を向ける必要があると主張したのです。

なお、物質世界にこだわり概念的なものを扱わない人々のことは、勇気がない怠惰な人と揶揄しています。

ではどうすれば絶対的な知識は獲得できるのでしょうか?

ヘーゲルは、人間の意識を通して絶対的な実在を認識することで絶対的な知識は獲得でき、それこそが学問の本来の目的である、と主張します。

この考えは一般的な学問とは大きくかけ離れており、現代社会を生きる我々には、理解が難しいかもしれません。

ただヘーゲルは、自然科学が頼りにしている客観的な情報ですらも、貧弱で信憑性に欠ける幻想だとしています。

なぜなら、主観と客観は切り離せず、物も観察者も結局は1つの大きな流れであるからです。

つまり、物質世界の情報を元に発見されたものは全て木々であり、我々が本来目指すべきは森を見ることなのです。

個人の在り方

世界の展開は人間の精神の発達の流れである、というヘーゲルの主張を軸とすると、個人の在り方はどのようになるのでしょうか?

人間という種族の精神が発展していく過程において、個人の役割はあるのでしょうか?

ヘーゲルは、人間が感じる個別性は幻想であり、肉体とは一時的な自分と物質世界の一致である、と言います。

多くの人が悩み苦しむのは、大きな世界ではなく小さな世界に執着すること、またその小さな世界の現実性を信じているからです。

ヘーゲルの哲学を知ると、その精神の個別性は嘘であり、全体として統一された精神の流れの中の単なる1つであることが分かります。

すると、幸福か不幸かという2つのテーゼは融合し、ジンテーゼとして新たな価値観が生まれるのです。

人間は個人的利益の追求をしても、完全な幸福は得られません。

なぜなら、それは真理に反しているからです。

自らが全体の一部であることを理解し、共同体としての認識を持ち、個人の目的を放棄したときに、初めて完全な幸福を獲得できるのです。

個別性を放棄することによって視野が広がり、人類の幸福こそが自分の幸福となるのです。

ヘーゲルは、徳という概念は個別性を放棄する意志を指す、としています。

哲学と宗教

哲学と宗教は非常に近しい関係にあります。

ヘーゲルは、両者は全く同じことを語っているが、ただその真理の認識の仕方だけが違う、と主張します。

哲学では、世界は理性に従って動いていると考え、その理性を研究することが目的です。

そして、哲学はあまりにも難解であり、多くの人は哲学を学びたいとは思いません。

そこで、宗教が登場するわけです。

宗教は、目には見えない超越世界を実感するための方法の1つなのです。

例えば、哲学における理性は宗教における神に当てはまります。

哲学における理性 = 宗教における神

宗教が扱う物語や経典は、そのほとんどが哲学における理性の研究とその働きについての解説と同じことを表現します。

信仰はただの戯言ではなく、世界の真理に近づくための手段なのです。

ここで注目したいのは、哲学と宗教の両者を受け入れるヘーゲルの視点の高さでしょう。

一見すると対立しそうな両者の主張も、ヘーゲル弁証法の前では、調和していくのです。

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ヘーゲル「精神現象学」まとめ

ヘーゲルは「精神現象学」を通して、人類の精神の発展過程を研究しました。

全体を1つの流れとして見るヘーゲル哲学と、それを支えるヘーゲル弁証法(アウフヘーベン)は、独特な世界観を持ちながらも、今もなお多くの人の関心を集めます。

また、一つ上の視点から、抽象度を上げて物事を観察することは、様々な気づきを我々に提供してくれます。

ぜひ参考にしてみてください。

  • ヘーゲルはドイツの哲学者である
  • ヘーゲルは、哲学を個々の衝突という視点ではなく、全体の流れという観点から見る
  • 大きな意識の流れの中で、個人は本来的に個別性を失う
  • 宗教と哲学はアプローチの仕方が違うだけで、本質的には同じことを目指す

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