あなたはなぜ自然科学が成り立つかが分かりますか?
なぜ1+1=2が成り立つのでしょうか?
この難問に挑戦した人がいます。
「純粋理性批判」の著者である、イマヌエル・カントです。
この記事では、カントの「純粋理性批判」について解説していきます😆
カントとは
イマヌエル・カント(1724-1804)はドイツの哲学者です。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、哲学界に大きな影響をもたらしました。
一方で、ケーニヒスベルク大学の哲学教授という一面も備えており、非常に人気な講師だったようです。
カリーニングラードで生まれ育ったカントは、多くの異国の商人と出会います。
そんな中で、世界には色々な視点が存在していること、人それぞれ正しさの軸が違うことに興味を持ちます。
彼のその興味が、最終的に「純粋理性批判」を作り出すことになったのです。
カント「純粋理性批判」の解説
「純粋理性」とはカントが作り出した言葉で、人間に元から備わっている認識の力のことを指します。
「純粋理性」とは、人間に元から備わっている認識の力のこと
「純粋理性批判」とは、人間が知り得る限界がどこにあるのかを考えることを指します。
「純粋理性批判」とは、人間が知り得る限界がどこにあるのかを考えること
カントは、この「純粋理性」を駆使することで、人間はどこまでの範囲で知識や意見を共有でき、どこからは共有できなくなるのかを見つけ出そうとしました。
カントの答えが全て正しいわけではありませんが、認識の仕組みについての深い考察は今後の哲学界や自然科学界に大きな影響を与えます。
近代哲学の二大問題
カントが生きていたころ、哲学界には2つの大きな問題がありました。
それが以下の2つです。
- 物心問題
- 主観客観一致の問題
物心問題とは、心は物からできているのか、それとも物とは違った存在なのか、という問題です。
自然科学が発展していた当時の時代では、全てのものは因果法則によって捉えることができると考えられがちでした。
それが理由で、人間の心は脳から生まれている、といった仮説が生まれていきました。
しかし、心を含む全てが因果法則に支配されているのであれば、人間の自由意志なんてものはありません。
主観客観一致の問題とは、人間が世界を客観的に観察できているのかどうか、という問題です。
実験・観察しているのも人間の主観であるから、そこから生み出された理論も人間の主観なのでは?という疑問です。
これが本当だとすると、全ての知識は客観的世界そのものに一致することはできない、ということになってしまいます。
これらの近代哲学二大問題を踏まえて、カントは人間が共有できるような知識を作るにはどうすればよいのか、を考えます。
誰でも共有できる知識を作るためには、まずは人間の認識の仕組みを理解する必要があります。
「純粋理性批判」では、この人間の認識の仕組みについて詳しく書かれています。
認識の仕組み
カントは認識の仕組みを物自体と現象という言葉を使って解説します。
物自体とは、客観的なそのものの存在
現象とは、心の中にあるもの
人間はまず、物自体を感覚器によって発見して情報を獲得します。
すると、そこで得た情報は脳内で主観を頼りに認識されます。
そして、その認識された情報が心に現象として映し出されます。
彼の主張の興味深いところは、今までの認識の常識をぶっ壊す主張をしていることです。
カント以前の人々は、物体を視覚的に認識したら、それが客観的に正しい情報だと考えていました。
目に映ったものが、実際に存在している物体のありのままの姿だと思われていたのです。
しかし、カントは物自体という存在を定義し、この真の在り方は誰にも認識することができないと主張します。
実際に人間の感覚器を通して得た情報には、かなりのバイアスがあります。
例えば人間から見ると、リンゴは赤く見えますが、ネコから見ると白黒に見えますし、シャコから見ればより詳細な色合いが見えるわけです。
つまり、物自体という本質ではなく、あくまで感覚器という眼鏡を通して観察できる世界を見ているわけです。
カントは、物自体の解明は諦めます。おそらく一生解明されることはないでしょう。
彼は、認識に関しての詳しい考察をしていきます。
我々が持っている共通の認識能力(眼鏡)を理解しようとしたのです。
この共通の認識能力のことを、共通規格と呼びます。
感性・悟性・理性
カントは人間の認識能力を三層構造で捉えます。
それが感性・悟性・理性です。
感性 = 直感
悟性 = 判断
理性 = 推論
感性とは、五感をコントロールする能力です。
人間は感覚器を通して物自体を認識します。
直感的に何かがそこに存在している、でもそれが何かは分からない、という状態です。
悟性とは、物事を判断する能力や思考する能力を指します。
感性で得た情報に判断を加えていきます。
「〇〇は~~である」というように、物自体を感覚器を通して得た情報から、何か理解できる形にまで判断するのです。
理性とは、推論をする能力です。
物事の解明であったり、因果関係の追求であったりは、全てこの理性が担当しています。
人間は得られた情報から、さらに多くのことを知ろうとして、推論をしていきます。
具体例を出しましょう。
まずは物自体を感性を通して認識します(感覚器を使って認識する)。
オレンジ色の丸い物体が存在していることは分かります。
しかしこれが何かまでは分かりません。
次に悟性を通して判断をします。
オレンジ色の物体は、みかんである、という風に判断を加えます。
この作業によって、人間は物事を認識しているのです。
最後に推論をします。
このみかんはどこからやってきたのか?
味は美味しいのだろうか?
などのように、思考を進ませていくのです。
悟性による3種類の判断
カントは、悟性の判断を3種類に分類します。
それが以下の3つです。
- 分析判断
- 経験的総合判断
- アプリオリな総合判断
分析判断とは、主語の中に含まれているものを述語として取り出した判断です。
例えば、富士山と聞いたら、それは山だと判断します。
富士山という主語の中に山という要素が含まれているから、それは山であると判断できるわけです。
経験的総合判断とは、実際に調べることによって新たな情報を主語に加えた判断です。
例えば、富士山は美しいと判断します。
それは、今までの経験から富士山は美しいということを知っていて、その情報を新たに主語に付け加えているのです。
アプリオリな総合判断とは、先天的な経験を必要とせず、どんな状況でも成り立つ判断です。
この言葉はカントが生み出したもので、これは人間の共通規格から生まれるとされます。
例えば、数式であったり、因果律であったり、自然法則はこれに分類されます。
アプリオリな総合判断
人間の共通規格から生まれるアプリオリな総合判断について、もう少し詳しく見てみましょう。
カントは”空間・時間”と”カテゴリー”の2つを使ってアプリオリな総合判断を理解しようとします。
まず先ほどの悟性と感性をこの”空間・時間”と”カテゴリー”に当てはめます。
感性 → 空間・時間 → 直感
悟性 → カテゴリー → 判断
感性は五感を使って直感として情報を取り入れますが、ここで”空間と時間”という枠組みを使っています。
同じく悟性も、判断をする際に”カテゴリー”を用います。
カテゴリーは12種類に分類され、数や関係性などが含まれています。
そして、”空間・時間”という物理的な枠組みと、”カテゴリー”という思考の枠組みを組み合わせたものがアプリオリな総合判断を構成しているのです。
空間・時間 + カテゴリー = アプリオリな総合判断
アプリオリな総合判断 = (1+1=2), 因果法則など
理性の限界
理性は推論をする能力を指します。
推論をすることは非常に重要です。
存在するリスクを回避したり、科学を発展させるための根源となるからです。
しかし、理性は時として暴走をします。
答えの出ない問題に対して考え続けてしまうのです。
人間の思考の枠組みの外にある事象を理解することはできないと、カントは言います。
彼が掲げた4つのアンチノミーが存在します。(アンチノミーとは、対立する2つの命題がともに証明できるので、どちらが正しいのかの決着がつかない状態です。)
- 宇宙は無限か有限か
- 物質の最終要素は存在するか
- 自由の原因性はあるか
- 無条件で必然的な存在者はいるか
これらは答えを出すことができません。
なぜなら、我々の認識できる”空間・時間”の枠組みの外にあることだからです。
共通の枠組みから外れ、創造の世界に入ってしまうと、人間は客観的で共通の知識を得ることができないのです。
叡智界・現象界
カントは、ここまでの情報を踏まえて、全ての物事は叡智界と現象界に分類できると言います。
叡智界とは、人間には理解できない範囲
現象界とは、人間に理解できる範囲
叡智界には、物自体や自由、宇宙などが含まれます。
これらは人間の持っている枠組み(共通規格)から外れているので、万人に共通する答えをだすことができないのです。
一方、現象界には、数式や因果律、その他ありとあらゆる事象が含まれます。
人間の共通規格の範囲内なので、誰でも理解することができ、正解も存在します。
人間の自由意志
ここで重要なのは、カントが最終的に人間の自由意志と因果律の両方の存在を両立させたことです。
一見すると、全ての因果律が分かると人間に自由意志はないように思えるし、人間の自由意志が存在すると、因果律の意味はなくなるような気がします。
しかし、両者は共に両立することが、叡智界・現象界の説明から分かります。
因果律は現象界にあります。
”空間・時間”と”カテゴリー”によって定義されるアプリオリな総合判断(共通規格)によって判断されていることなので、万人に共通であり、間違いなく存在します。
一方、人間の自由意志は叡智界に存在します。
人間の共通規格では理解できない範囲に存在しているので、誰も判断することができません。
つまり、誰も認識はできないけど、人間には自由が確実に存在しているのです。
カントは自然科学(因果律)と自由を両立させることに成功したのでした。
生き方の哲学
カントは、人間の認識を解明したうえで、人間の生き方についても言及します。
それが実践理性です。
実践理性とは、究極の道徳的世界を思い描き、それにふさわしい最高の生き方をすること
カントの主張を参考にすると、人間は自由意志と因果律を両立させています。
つまり、人間は因果律に縛られることなく、望む未来を手に入れて、道徳的に生き、幸せな世界を築き上げていくことができるのです。
しかし、人間はあまりにも因果律に縛られすぎている、とカントは言います。
多くの人は生理的欲求に支配されている動物と一緒であると表現しているのです。
例えば、筋トレをしている人がいたとします。
毎日ジムに行って、食事制限をしています。
しかし、その人は一瞬の気のゆるみからお菓子を食べてしまったとします。
その行動は因果律に支配された、自由意志のない行動であると言えます。
どんなにお腹が空いても、自分の成長のためには我慢する、つまり自由意志によって欲望を抑えることが、因果律から解放された自由な生き方なのです。
人間の自由意志は道徳的であるべきだとカントは考えました。
欲望を押さえて、自由意志を持って
- 人の幸せに繋がるのか
- 自分の成長に繋がるのか
これらを考えて判断し、行動することが豊かな生き方なのです。
人間は自由意志を持ち、道徳的に振る舞うことができるからこそ、素晴らしく尊厳があるのです。
そこに人間が人間たる所以があるのです。
カント「純粋理性批判」まとめ
カントは人間の認識の仕組みを解明することで、人間の自由意志と自然科学が両立することを証明しました。
彼の哲学的アプローチによる認識の理解は、後世に大きな影響を与えました。
以降記事のまとめです。
- カントとは、ドイツの哲学者である
- 純粋理性批判は、近代哲学二大問題の解明を目的としている
- 認識の仕組みは、物自体と現象によって説明できる
- 認識の中には感性・悟性・理性があり、悟性には3種類の判断が存在する、そしてアプリオリな総合判断が、人間の共通規格に関連する
- 叡智界・現象界を定義することで、自然科学と自由意志の両立をさせた
ぜひ参考にしてみてください。
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