ナポレオンをご存知でしょうか?
フランス初代皇帝として国を大きく先導し、世界にその名を轟かせた歴史上の偉人です。
「余の辞書に不可能の文字は無い」
という名言は、多くの人が聞いたことあるものかと思います。
この記事では、ナポレオンの歴史や名言を参考に、彼の思想について解説していきます。
ナポレオン・ボナパルトの歴史
ナポレオンという少年がフランスの初代皇帝まで上りつめる物語は非常に面白く、また示唆に富んでいます。
幼少期から詳しく見ていきましょう!
幼年期
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ナポレオンは1769年にコルシカ島で生まれました。
コルシカ島にはコルシカ人が住んでおり、ナポレオンもその中の一人です。
コルシカ人は、自尊心が高く、家族愛があり、郷土愛も強い、という気質があるようで、ナポレオンもそのような性格を持っていました。
また、母親の影響を強く受けており、男は男らしく、という思想の元かなり厳しく教育さ
れていたそうです。
どれくらい厳しいかというと、家にナポレオン専用の勉強部屋が作られ、一日中そこで勉強させられていたようです。
友人と遊ぶ時間もとれず、彼はだんだんと人付き合いが苦手になっていったとされています。
実際にナポレオンも
「母は幼いころから厳しく愛情を注ぎ、私が偉大なことしか考えぬよう、気を配ってくれました。」
と当時のことを記しています。
結果的に幼少期の彼は、勉強ばかりしているがり勉で、人付き合いは苦手だけど、名誉と約束を重んじる、そんな少年になりました。
少年期
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フランスの軍人になれと父親に言われたナポレオンは、ブリエンヌ幼年学校に入学します。
この幼年学校の生徒たちは、15歳になれば皆士官学校に進むという、いわゆるエリート学生の集まりでした。
そんな素晴らしい環境で、がっつりと勉強していくのかと思いきや、彼は非常に悩みます。
実は当時フランス国内は浮かれムードだったこともあり、生徒たちは学ぶ気がなく、ひたすら遊んですごしていたのです。
学校で得られるものの少なさにがっかりしながら図書館に引きこもる生活を始めます。
彼の日記には、
「あてもない栄光を望んで苦しむよりも、命を絶った方が良いのではないか?」
とまで書いてあったそうです。
また、1785年には父のカルロも死去し、人生はどん底となります。
人間関係は上手くいかない、勉強もつまらない、そんな状況でした。
そんな時、ある一冊の本と出会います。
それがプルタークの「英雄伝」です。
そこに記されていた古代マケドニアの大王、アレクサンダー大王に感銘を受けたナポレオンは、自分も歴史に名を残すような大きな人間になりたい、と思います。
そんな思いから、彼はより一層学問に力を入れていくこととなります。
軍事関係だけでなく、数学、生物学、科学、天文学と多種多様な分野を学んでいきました。
そして最終的に士官学校を卒業、砲兵少尉に任官されることとなります。
青年期
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1785年に砲兵少尉になったナポレオンですが、フランスには留まらず、生まれ故郷であるコルシカ島に帰ってしまいます。
実は当時、パリの街は荒れ、暴力不正わいろが多発しており、そんな欲望丸出しのフランスに飽きれてしまったのです。
1793年にフランス革命が終結します。
国王と王妃が処刑され、フランスは勝利ムード一色でした。
ヨーロッパの諸外国はこの革命の流れが自分たちの国に来るのを恐れ、フランスを攻め始めます。
しかし、フランス軍は圧倒的に兵力不足でした。
フランス革命が終わったばかりということもあり、司令官が元パン職人なんてことが発生していました。
フランスには優れた軍人が不足していたのです。
そんな時フランスのピンチを知り、ナポレオンがコルシカ島からフランスに舞い戻ってきます。
1793年、当時24歳にして砲兵隊長となります。
砲兵隊長は彼にとって非常に有利なポジションでした。
なぜなら、学問に精通していた彼は幾何学や数学の知見があり、それを大砲の落下位置計算に使えたからです。
ナポレオンの砲撃は非常に高い命中率で敵軍を薙ぎ払っていきます。
彼の活躍は多くの人に認められ、結果的に1796年、27歳の時点でイタリア派遣軍最高司令官に任命されます。
ナポレオン無双時
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そこからナポレオンの快進撃が始まります。
- 1798年にピラミッドの戦いでマムルーク騎兵に大勝
- 1799年にタボールの戦いでトルコ軍を撃破
- 1800年にマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破
このように、ヨーロッパ中の敵を蹴散らしていきます。
「アルプス山脈を越え」と呼ばれる非常に有名な絵は、当時のナポレオンを参考に描かれました。
そしてこの時期に彼の名言が生まれます。
不可能という言葉は愚かな者には妄想、臆病者には逃げ口上、権力者には自らの無能を語る言葉である
ナポレオン・ボナパルト
私の辞書には、不可能の文字はない
ナポレオン・ボナパルト
まさに無双状態です。
最終的に彼はヨーロッパ全土をほぼ全て制圧、ルイ14世以来、実に100年ぶりの栄光をフランスにもたらしたのです。
ドイツの詩人であるヨハン・ゲーテは当時の彼を
彼の生涯は戦いから戦いへ、勝利から勝利へ、神のごとき歩みであった。彼は空前絶後の人物である
と称しています。
彼の強さの秘訣
なぜナポレオンはそこまで強かったのでしょうか?
理由は大きく分けて2つあるとされています。
1つめは、戦略です。
- 敵の背後を廻り退路を断つ
- 兵力が薄いところを狙い、大砲で集中砲火
- 相手が退却したところで総攻撃(あらかじめ敵軍の退路を断っているのではさめる)
この敵軍を一網打尽にする戦略とそれを支えるナポレオンの砲撃技術で、連戦連勝していったのです。
2つめは、彼の優秀な指揮です。
圧倒的な自信があった彼は、
「敵の銃弾は私を避けていく!」
と叫び、自ら先頭に立って戦いました。
そんな彼の圧倒的な指揮力が、全軍の士気を大きく高めたのです。
ナポレオン皇帝の誕生
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彼の快進撃にフランスの国民は熱狂しました。
軍事力を武器に第一執政(今でいう大統領)にまで上りつめたナポレオンは、様々な改革を行います。
当時の年齢はなんと30歳です。
- フランス中央銀行の創設、経済の安定化
- ナポレオン法典による民法の制定
- 宗教の自由を規定
など革命後の荒廃したフランス社会を大きく先導しました。
そして1804年、35歳にしてナポレオンはついにフランス初代皇帝になります。
ついに彼が憧れていたアレクサンダー大王のようになったのです。
ナポレオンの没落
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ここからさらに快進撃を続けるのかと思いきや、そんな上手くはいきませんでした。
各国のトップを兄や弟に任せていったことや、近代的徴兵制の導入などが、国民から批判されるようになります。
また人間関係に関しても、子供ができなかったために奥さん(ジョゼフィーヌ)と離婚、別の女性(オーストリア王女、マリー・ルイズ)と結婚しますが上手くいきません。
そんな
- 改革の失敗
- ジョゼフィーヌの離婚
- マリー・ルイズとの不和
などが重なり、だんだんとナポレオンは病的になっていきます。
今まではチェスの駒のように人々を扱ってきていたナポレオンは、いつか自分もそうやって操られるのでは、と不安になり、その不安が身体を蝕んでいったのです。
当時の彼は、胃潰瘍、肺炎、気管支炎、痔症、膀胱炎など、ありとあらゆる病気に罹ったと言われています。
実際にナポレオンの側近は、彼のことを
ナポレオンにはただ自分の為の自分が存在している、他の人間は彼にとっての記号のような物なのでしょう。
と記しています。
そして極めつけは、1812年のロシア遠征です。
一大プロジェクトだったこの遠征で、彼は50万人の死者を出してしまい、国民からは食人鬼と称されるまでになってしまいます。
最終的に1814年、皇帝退位をしてエルバ島に送られてしまいます。
1815年には自らパリに戻ってきて、再び皇帝の座につくものの、またもやワーテルローの戦いで大敗、今度はセント・ヘレナ島に追放されてしまいます。
そこで彼は晩年を過ごし、1821年に51歳という年齢で命を落とします。
当時の彼は次のような言葉を残しています。
自分の没落の原因は自分以外の何物でもない、自分こそが身の大敵であり、身の不幸の作りてだった。
ナポレオン・ボナパルト
また、息子であるナポレオン2世に対しても次のような言葉を残しています。
歴史を読み歴史について、めい想せんことを祈る。
歴史だけが真の哲学なのである。
しかし心の底にある聖なる火、あの善に対する愛を持たないならば、何を学ぼうとも役立たないであろう。
ナポレオン・ボナパルト
彼は自分の人生を通して、己の善に対する愛の不足を感じ、それが自らの不幸を生み出したのだと考えたのです。
ナポレオン・ボナパルトの名言
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ナポレオンの名言から学べることは非常に多いです。
彼の人生を知ってから名言を見ると、より一層臨場感が出てきます。
リーダーとは「希望を配る人」のことだ。
ナポレオン・ボナパルト
快進撃を続けるナポレオンには、圧倒的な自信があったのでしょう。
そして、圧倒的な自信がある人のもとに人は集まります。
人が集まるということは、富名声権力などありとあらゆるものが集まるのです。
なぜ彼があそこまでの自信を持てたのか、それはおそらく幼少期の家庭教育と、アレクサンダー大王への憧れでしょう。
最悪の策とは、ほとんど常に、もっとも臆病な策である。
ナポレオン・ボナパルト
臆病な姿勢、戦略では勝利に近づくことはできません。
人間は頭で考えていたことを物理空間でも現実化させます。
- 自分では勝てるかどうかわからない
- この戦略じゃ勝てないかも
- あまり自信ないけどこの作戦で行こう
このような精神状態では絶対に勝負に勝てません。
これらをナポレオンは最悪の愚策であると言っているのです。
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状況?
何が状況だ。
俺が状況を作るのだ。
ナポレオン・ボナパルト
凄まじい自信です。
しかし誰だってこれくらいの自信を持って生きていいはずです。
事実、状況なんてものはあなたの捉え方次第でどうにでもなります。
自らが運命を作り出し、状況を生み出しているんだ!
これくらいの気概があるといいかもしれません。
世界には二つの力しかない。
剣と精神の力である。
そして最後は、精神が必ず剣に打ち勝つ。
ナポレオン・ボナパルト
どんなに剣技が強くても、最終的には精神の勝負になるとナポレオンは言います。
人間の精神状態がどれだけ重要かを教えてくれる名言です。
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人間は、その想像力によって支配される。
ナポレオン・ボナパルト
想像力が世界を支配する。
ナポレオン・ボナパルト
ナポレオンは想像力のパワーをよく理解していたのでしょう。
人間の想像力にはとてつもない力があるのです。
自分にはできない、どうせ無理だ、そんなことを想像していたら、できることもできなくなります。
自分なら必ずできる、そう考えていれば実際に達成できるのです。
これはナポレオンが人生を懸けて証明したことでもあります。
人間はその思考、マインドセット、想像力によって支配されているのです。
そしてその支配は人間だけでなく、世界に及びます。
世界を定義しているのも人間だからです。
自分の想像力の力を信じて、未来を切り開いていきましょう
まとめ
ナポレオンは圧倒的な自信とそれを支える賢さで、フランス初代皇帝まで上りつめ、ヨーロッパほぼ全土を支配するまでにいたりました。
そんな彼の人生から学ぶことは非常に多いです。
ぜひ参考にしてみてください!
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