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「荘子」を分かりやすく解説

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「荘子」とは、中国戦国時代を生きた思想家である荘周が書いた道教に関する文献です。

諸子百家の時代で国が乱立していた当時、多くの人はどうすれば国が豊かになるかを考えていました。

そんな時代の中、いかにして個人は幸せに生きることができるか、を説いたこの本はとても重宝されました。

そしてこの「荘子」の思想は、現代においても適応することができます。

社会が発展したからこそ、一人ひとりの幸福について考える必要があるのです。

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「荘子」とは何か

Wikipedia参照

「荘子」とは今から2300年前の中国で成立した道教に関する書物です。

作者は荘周という人物で、老子などと共に「道家」の教えを構成しています。

戦乱の時代において、多くの書物が国のあるべき姿を説いたのに対して、「荘子」は個人の幸せにフォーカスした思想を記しています

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「荘子」の解説

「荘子」は小説のような書かれ方をしており、物語の描写が多いです。

またその物語に関しても以下のような特徴を持っています。

  • 寓言(他事にことよせて語られた物語)
  • 重言(古人の言葉を借りて重みをつけた話)
  • 巵言(相手の出方次第で臨機応変に対応していく話)

個人の幸福な生き方について説いた荘子の思想はどのようなものなのでしょうか?

以降、詳しく解説していきます。

渾沌

渾沌とは、何が生まれるかも分からない、何が起こるのかも分からない、人間には感知できない活発な何か、を指します。

渾沌とは、何が生まれるかも分からない、人間には感知できない活発な何かを指す

人間は、この渾沌を感覚器官を通して感知し、それが何であるかを定義します。

例えば、渾沌という存在を眼で見て鼻で嗅いでみることで、それがリンゴである、と理解することができるのです。

全ての存在は、人間の感覚器官によって認知される前は渾沌なのです。

この渾沌の状態を「ないがまま」と表現します。

「あるがまま」という表現は良く聞きますが、「ないがまま」という表現はあまり聞いたことがないかもしれません。

しかし、「荘子」の思想では、この「ないがまま」という言葉がキーワードとなります。

ないがまま

「荘子」の思想では、「ないがまま」の状態を目指します。

人間は自分が感じた時点で、その物事を私色に染めてしまっています。

自分の感覚器を通して観察したものは、そこに自分の思想を入れ込んでしまっているのです。

荘子の教えでは、無為自然の状態を最高の状態であると主張します。

無為自然とは、物事が自然にあるべき姿で存在しており、人為が加わっていない状態です。

そして、この無為自然とはまさに渾沌であり、また「ないがまま」の状態なのです。

無為自然=物事が自然で、人の手が加わっていない状態

渾沌=ないがまま=自然

自然が最高の状態であると考える荘子の思想において、自分の思想を物事に付け加えることは良くないことです。

自らの感覚器を通して付け加えた勝手な判断や意味、はかりごとなどは全て人為であり、これでは無為自然は達成できないのです。

はねつるべの話

荘子にはねつるべの話が出てきます。

はねつるべとは井戸の水を汲むための機械です。

ある老人が苦労して水を手に入れて、自分の畑に運んでいました。

いちいち水を汲んでは運んでを繰り返すこの老人を見て、孔子の弟子は思わず声をかけます。

孔子の弟子ははねつるべの存在と、その便利さを老人に説きます。

しかし、老人はその提案を払いのけるのでした

機械を用いるものは機事をするようになります。

機事をする者は機心をめぐらせるようになります。

機心を持っている者は、更なる効率化を目指してしまいます。

そうするとそこに競争が生まれてしまうのです。

老人は、はねつるべを利用することが人為であり、無為自然の状態ではないことを理解していたため、あえてはねつるべを使っていなかったのです。

何かを求める心は、人間を不安定にさせます。

無為自然の状態であることが、幸福であるためのコツなのです。

万物斉同

「荘子」の思想において、万物は元をたどれば全てが渾沌にたどり着くことを前章で紹介しました。

この渾沌とは無為自然な状態のことで、これを「道」とも呼びます。

万物は本来は無為自然であり渾沌です。

どんな物にも「道」が存在しており、全ては平等な存在です。

これを万物斉同と呼びます。

人間という媒体を通さなければ、全ての物はみな等しく価値があるものとなるのです。

常識や当たり前は無意味

この万物斉同という事実から分かることはいくつもあります。

まず、人間の中にある心や物はまったくあてにならない、ということです。

物事本来の姿ではなく、勝手に意味付けをして心に映し出したものを見て一喜一憂しているのはアホということになります。

私という媒体を通した瞬間に、物事の本来の姿は見えなくなってしまうのです。

だからこそ仏教では、写経やお経を唱えることで、私をなくそうとします。

また、人間の生み出した固定観念や常識はまったくの無意味であることも分かります。

常識や当たり前は人間が勝手に作り出したものであり、それは無為自然に反しています。

「荘子」の思想は、我々が普段囚われているような常識をあざ笑っているのです。

受け身

幸福を達成するための行動原理として、「荘子」では受け身を推奨します。

受け身とは、自分をなくして運命に従う生き方です。

「荘子」では、受け身の生き方こそが最強の主体性であると考えるのです

一般的な主体性とは、自分からどんどん決断をして、目標設定をして、前に進んでいく印象があります。

しかし、荘子はこの一般的な主体性を否定するのです

このような主体性には、予測や予断が必要になります。

未来にどうなっていたいかを考えたり、先に未来の計画を決めておくことは、人為にあたります。

これらの行為は無為自然に反しているのです

だからこそ、荘子における一番の行動原理は受け身なのです。

未来のことは分からないので、予測したり計画することは意味がありません

現実世界を生きているのなら、最低限の計画は必要でしょう。

しかし、必要以上の計画は価値がないのです。

それよりも、運命に従って受け身で生き、直感や本能に従うことを荘子ではオススメしています。

何が起きても、それもまた運命であり、自然なのです。

今に集中して、あなたが生命体として何を感じているのかを重視してみましょう。

今までに出てきた内容をまとめると、次のようになります。

  • 人間はそこに判断や価値決断をした瞬間に、物事は無為自然の状態ではなくなる。
  • 本来は全ての物事は平等である
  • 自ら判断するのではなく、本能や直感、運命に従って行動することが幸福につながる

そして、これらを踏まえたうえでたどり着ける境地が「遊」です。

「遊」とは固定観念や常識に縛られることなく、本能や直感に従い、無私の状態でいることを指します。

遊とは、無為自然、万物斉同の自由な境地に遊ぶことを指す

この境地に達することができれば、人間は本来の力を発揮し、トップレベルのパフォーマンスができるようになります。

料理人”庖丁”の話

荘子に出てくる話に、料理人”庖丁”の話があります。

庖丁という人物が見事な包丁さばきで牛を解体していく様を表わす話です。

多くの料理人が大きな牛の肉の解体をしようとします。

しかし、その難易度は高く、多くの人は上手にさばくことができません。

そこで登場したのが庖丁という男です。

彼が包丁を握り、ひとたび牛を切り始めれば、肉は骨からスルスルと離れていき、見事なリズムで踊るように牛を解体していくのです。

彼がなぜこの圧倒的な離れ業を成し遂げることができたのか、それは彼が「遊」を会得していたからです。

彼は自分という存在を消し、無私の状態で牛を見つめ、本能と直感に従って肉をさばいていたのです

彼は数え切れないほどの肉を解体してきたからこそ、無意識になっても身体は勝手に動いてくれるのです。

反復練習を通して身体に染み付いた行動は、自分を消して無為自然の状態になっても、行うことができます。

無意識の領域

大抵の人は、自分という存在を消して無私の状態になると何もできません。

これは反復練習が足りないからこそ、体が無意識でも動くことができないのです

「荘子」に次のような言葉があります。

故に始まり

性に長じ

命に成る

「荘子」

これは人間の行動に関する仕組みを表わしている言葉です。

一つひとつ言葉を解説すると、以下のようになります。

故=生まれつきの下地

性=無意識の領域

命=逆らえない流れ

人間は生まれつき持っている個性や下地から始まります。

そして、日々の反復練習によって無意識の領域が構成され、最終的には自然の流れや道に従うのです。

これを踏まえると、人間は反復練習による無意識レベルでの行動を可能にすることで、素晴らしいパフォーマンスを出せることが分かります

意識的な行動には人為があります、道に反していて無為自然の状態ではありません。

まだ練習が足りないのです。

無意識まで行動を落とし込むことができれば、それは無為自然の状態であり、道に従っています。

これこそが、自在の境地である「遊」なのです。

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まとめ

「荘子」では、無為自然という観点から物事を見ていきます。

人間という媒体を通して見たものは全て人為が介入しており、物事本来の姿を見れてはいない。

だからこそ本能や直感を大切にし、運命に従って生きることを推奨するのです。

ぜひ参考にしてみてください😆

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