仏教思想の一大転換を巻き起こした大乗仏教ムーブメント。
その流れの中で生まれた経典に「維摩経」があります。
主人公の維摩を中心に物語が進み、だんだんと大乗仏教の中心思想に迫っていく、というものです。
大乗仏教の教えは、現代を生きる我々にも多くのことを教えてくれます。
この記事では、そんな「維摩経」について解説していきます。
大乗仏教とは
大前提として、大乗仏教について解説します。
大乗仏教とは、仏教界の1つの宗派です。
お釈迦様が初期仏教を生み出してから、数多くの宗派が生まれてきました。
その中でも2つの大きな宗派が上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教なのです。
仏教とは非常によくできた宗教で、内部から既存の仏教体形を揺さぶる思想が生まれるようになっています。
出家中心の初期仏教が発展すると、在家者中心の大乗仏教という宗派が生まれます。
高度な理論を発展させる大乗仏教が発展すると、より実践的なヨーガが勢力を増します。
実践を重視するヨーガが発展すると、神秘主義的な密教のムーブメントが起こるのです。
大乗仏教の特徴
大乗仏教の特徴は大きく分けて以下の3つです。
- 菩薩道
- 「空」の理念
- 他者性・社会性の重視
まず菩薩道についてですが、大乗仏教では悟りを求める人は全てが菩薩であると考えます。
つまり、優れた修行者ではなくても、誰でも悟りを開くことができるのです。
今までの初期仏教では、悟りは厳しい修行の先にしかなく、一般人は救われることはないとされていましたが、大乗仏教では万人救済を目的としているのです。
「空」とは初期仏教ではもともと、何もない・からっぽ、の意味を持っていました。
しかし、大乗仏教ではこの「空」という概念を発展させます。
全ての本質は「空」であり、万物を分断しているのは我々の分別であると考えたのです。
また、大乗仏教は他者性と社会性を重視します。
より良く社会を生き抜くためにはどうすれば良いのか?これを考えるのです。
出家して世俗との関係を絶つのではなく、人々との関わりを大切にする仏教の形を目指したのです。
「維摩経」の解説
以降、「維摩経」の内容について解説していきます。
「維摩経」は紀元1-2世紀に作成されたもので、初期から現存するものはサンスクリット語・チベット語のみとされています。
主人公は在家仏教信者の維摩さんです。
日本仏教の方向性を定めるのに一役買った「維摩経」ですが、その主人公は釈迦でもなく、その弟子でもありません。
ごく普通の社会生活を営む仏教者なのです。
出家者と在家者を区別しないのが大乗仏教であり、それが多くの日本人に受け入れられた理由なのかもしれません。
物語のあらすじ
毘耶離という都市に住む在家仏教者の維摩さんは、社会に馴染んで暮らしていました。
しかし、あるとき維摩は病気になってしまいます。
そこで、釈迦が弟子たちにお見舞いに行くように言います。
しかし、誰1人としてお見舞いに行こうとする人はいませんでした。
なぜなら、弟子たちはみな維摩に教えを論破されたことがあったからです。
古代ギリシアのソクラテス的な位置づけです。
そんな中、唯一文殊菩薩だけがそのお見舞いを引き受けます。
智慧一番とされる文殊菩薩と慈悲の心が強すぎるあまり病気になってしまった維摩、2人は大乗仏教の教えに関する討論を始めます。
「縁起」「空」などの難解な概念や、仏教の根本思想である「利他」など、ありとあらゆる大乗仏教の教えを議論していくのです。
最終的には、大乗仏教の教えは抽象的な絵空事ではなく、実践の問題であることが分かってくるのです。
「縁起」と「空」
大乗仏教の教えの中心思想は「縁起」と「空」でしょう。
縁起 = 仏教独特の因果律、全ては関係性によって成立していることを指す
空 = 執着や判断を手放した、無分別の状態を指す
初期仏教はどちらかというと、苦悩を生み出す特定の原因を見つけ出して、それをなくそう!という思想を抱いていました。
しかし、特定の原因を発見するとなると、それを解消するためには大変な努力と勉強をしなければなりません。
だからこそ、初期仏教の出家者は厳しい修行を乗り越えようとするのです。
一方、大乗仏教は初期仏教と比べて、思想が高度に発展しています。
全ては関係性によって成立している、とする縁起の思想のもと、あらゆる現象・存在は固定的ではなく実体はないと考えるのです。
そして大乗仏教では、苦悩を生み出している原因は特定の要因ではなく、物事を区別する自分の心にあると捉えます。
きれいな花と雑草を例に挙げると、以下のように例えることができます。
- 初期仏教はきれいな花の周りの雑草を引き抜こうとする
- 大乗仏教はきれいな花と雑草を区別しないようにする
「空」の思想
「空」とは、全ての物事の区別をなくそうとする思想です。
枠組みや固定観念を壊し、分け隔てなく平等に物事を見る思想なのです。
そして、この「空」にたどり着くためには”六十二見”が必要であると、維摩経には書かれています。
六十二見とは、唯物論・運命論など仏教以外の異説を理解認識すること
つまり、大乗仏教の極致である「空」に達するためには、仏教以外の思想や哲学、宗教などに触れなければいけないのです。
異説や異論を排除せずに、全てを複合してらせん状に論を深めていく大乗仏教の手法には感嘆せざるを得ません。
また、「空」の思想の真ん中は理論が存在せず、まさに空っぽとなっています。
これは、中心に理論が存在すると、異端・順列・ヒエラルキーなどの区別が生まれてしまうからです。
常に、実体的・固定的に囚われないモノの見方をする必要があるのです。
言葉が分断を生み出す
「空」の思想をさらに思考すると、そもそも言語自体が思考の分断を引き起こしていることが分かります。
人間が「正義」という言葉を生み出した結果、「悪」が生まれるわけです。
「美味しい」と誰かが言った瞬間に、「美味しくない」という概念も成立するのです。
むしろ、対立概念が存在しなければ言葉は定義することができません。
維摩経にも、これを顕著に表現するシーンがあります。
それは、維摩が仏の悟りに関しての意見を求められた時に、黙ってしまう、という場面です。
これを「維摩の一黙、雷の如し」と言ったりします。
維摩は、言葉自体が分断や分別をはらんでいるため、仏の悟りの境地を言葉で説明することはできない、という主張をしたのです。
ここに、「空」の難解さと言語の限界が垣間見えます。
二項対立を解体する
全ての分断は我々の心が生み出していることを理解すると、二項対立は全て解体できることが分かります。
「正義」という概念は「悪」という概念が存在するから成り立ちます。
そして「正義」か「悪」かを判断するのは我々の心です。
つまり、勝手にものごとを判断する我々の心を客観的に観察することができれば、世界を正しく認識できるようになるのです。
基本的に人間は、固定観念によって世界の認識をゆがめています。
このゆがみに執着することが苦悩や悩みを生み出しているのです。
そしてこの認識のゆがみを元に戻すためには、二項対立を解体してくことが効果的です。
こだわりをなくし、柔軟な思考で物事を捉えることが、「空」の思想の実践です。
智慧と慈悲
大乗仏教は智慧と慈悲の2つの軸で成り立っています。
実際に維摩経でも、智慧一番の釈迦の弟子である文殊菩薩と、慈悲の心が強すぎるあまり病気になってしまった維摩の2人が出会うことで、話が進みます。
両者をまとめると、以下のようになります。
智慧 = 「縁起」や「空」などの教義を理解すること
慈悲 = 大乗仏教の教えを「実践」すること
智慧だけ持っていても意味はありません。
「縁起」や「空」を理解して、自分だけ満足していても、それは傲慢だけなのです。
大乗仏教では、出家者の人々の、他人に迷惑を欠けなければ何でもいい!という価値観を、美徳でもあるが傲慢でもあると主張します。
社会と関係を持ちながら、慈悲の行為を通して智慧を「実践」していくこともまた重要です。
教えとは、「実践」をすることでより深まっていくものなのです。
上手に他人に迷惑をかけたり、お世話されたりする縁起の中で、心と身体を養っていく。
その繰り返しを通して、次々と固定的な思考の枠組みを外していき、「空」を目指すのが大乗仏教です。
「維摩経」まとめ
この記事では、「維摩経」についてを解説しました。
大乗仏教の経典である「維摩経」には、社会との関係を築きながらも上手に生きるための思想が詰まっています。
凝り固まった思想に執着するのではなく、常に思考し続けることが大切です。
ぜひ参考にしてみてください😆
以下記事のまとめです。
- 大乗仏教とは、仏教の宗派の1つであり、万人救済を目的とする
- 縁起とは、仏教独特の因果律、全ては関係性によって成立していることを指す
- 空とは、執着や判断を手放した、無分別の状態を指す
- 言葉(二項対立)が分断を生み出す
- 智慧(経典)と慈悲(実践)の両者が組み合わさって初めて意味がある
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