法然とその弟子の親鸞の思想を元に書かれた「歎異鈔」。
この本には、大乗仏教に属する浄土真宗についてが詳細に示されています。
厳しい修行を乗り越えなければ救われることはない、と考えていた今までの常識を覆す新たな思想は、多くの人を救うことになります。
この記事では、そんな親鸞「歎異鈔」について解説していきます😆
親鸞とは
親鸞(1173-1263)とは、鎌倉時代の前半から中期にかけて活躍した日本の仏教家です。
法然を師匠としており、浄土真宗の開祖です。
親鸞は人生を仏教に捧げた人間でした。
京都で生まれた彼は、9歳で出家してから約20年間、比叡山での厳しい修行に耐えます。
しかし、それでも悟りは開けず、煩悩を消すことはできませんでした。
そんな苦悩の中で彼が出会ったのが、法然の教えでした。
厳しい修行をしなくても念仏を唱えるだけで救われる、という思想に感銘を受けた親鸞は、法然の弟子となり思想を深めていきます。
結果的に彼は、新たな仏教の在り方を構築します。
それが浄土真宗なのです。
親鸞「歎異鈔」の解説
歎異鈔とは、親鸞の弟子である唯円が編纂したとされる本で、浄土真宗の教えとそのポイントが書かれています。
名前の歎異鈔は、異なっていることを歎く(なげく)、という意味から来ています。
なぜこのような名前がついたのでしょうか?
実は、浄土真宗の教えというのは誤解されやすいことで有名です。
念仏を唱えるだけで救われる、という思想は革命的であったと同時に、多くの異なった解釈を生み出したのです。
この歎異鈔であっても、誤解されやすいからむやみに人には読ませるな、という注意書きがあったとされています。
親鸞の死後、弟子である唯円はこの異なった解釈が広まっている現状を歎きます。
そして「歎異鈔」という浄土真宗の正しい教えと方向性を示した本を書くことで、間違った解釈を正そうとしたのです。
万人救済の思想
歎異鈔で説かれる浄土真宗の革命的なポイントは、その教義が万人救済の思想であるということです。
今まで存在していた仏教(初期仏教、部派仏教)は、厳しい修行を乗り越えた先に悟りの境地があり、極楽浄土がある、という教えを説きました。
しかし、これではかなりの時間と労力を割くことになります。
事実、親鸞は20年間毎日修行をして、結果的に悟りを開くことはできませんでした。
そこで彼が注目したのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで誰もが救われるという教えです。
誰もが厳しい修行を乗り越えられる訳ではありません。
では、そんな厳しい修行をこなすことができない人は、一生救われることはないのでしょうか?
そんなことはありません。
誰もが現世で救われることができる、その万人救済の思想こそが浄土真宗なのです。
ちなみに「南無阿弥陀仏」という念仏には意味が込められています。
阿弥陀というのはインドのサンスクリット語を漢字で当てはめたものです。
アミターユス(無量寿)=限りがない命
アミターバ(無量光)=限りない光
南無=おまかせします
これらを合わせて1つの念仏としているのです。
南無阿弥陀仏=この世界に満ち満ちる限りない光と限りない命のはたらきにおまかせします
難行ではなく易行
浄土真宗の特徴は、難行ではなく易行であることです。
初期仏教では厳しい修行や教えによって煩悩をなくし、悟りを開くことを目的とします。
難しいお経をよんだり、人里離れた場所でひたすら座禅をしたりと、難行を通して救われることを目指します。
しかし、浄土真宗では前章で紹介した通り「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われることができます。
世俗に生きて、肉や魚を食べ、妻帯者であっても構いません。
出家者ではないので、人里離れた場所に住む必要もありません。
ただ「南無阿弥陀仏」と唱えればいいのです。
これ故に、浄土真宗は易行であると称されるのです。
自力ではなく他力
浄土真宗のもう一つの特徴は、自力ではなく他力であるということです。
初期仏教では自分の努力によって自ら悟りを開こうとします。
しかし、この努力は並大抵のものではありません。
断食や滝行、その他数多くの修行が待ち受けており、多くの人には乗り越えることができません。
そんな自力で悟りを開くことができない多くの人々を救う思想が、他力の考え方なのです。
他力とはつまり、阿弥陀様に救いを求めるということです。
初期仏教では主役が自分であったのに対して、浄土真宗の教えでは主役は阿弥陀様になり、念仏を唱える人々は脇役で救われる役となったのです。
例えば、現在でもよく使われる他力本願という言葉は本来は、阿弥陀様の願いの力、という意味が込められているのです。
悪人こそが救われる
浄土真宗の思想では”悪人正機説”というものがあります。
これは、善人だって救われるくらいだから、ましてや悪人が救われるのは当たり前のことである、という思想です。
悪人正機説=善人だって救われるくらいだから、まして悪人が救われるのは決まっている
ただしここで注意したいのは、一般的な悪人と善人とは定義が違うということです。
「歎異鈔」でのこれらの定義は以下のようになります。
善人=自分で修行して煩悩を消し去り悟りを開ける人
悪人=自分では修行して煩悩を消すことができない人
悪人とは悩みや煩悩をかかえている人のことです。
浄土真宗の教えでは、そんな修行を通して自らの煩悩を消し去れない悪人をみな救おうとします。
自力でどうにかできるやつは、勝手にやればいい、でもそれでも救われることができな人は、阿弥陀様の力を頼ろうよ!ということです。
間違った見解の批判
「歎異鈔」の大きな役割の1つに、間違った解釈を正す、というものがあります。
主な内容は以下の通りです。
異義 | 異義の内容 | 正しい考え方 |
---|---|---|
誓名別信 | 阿弥陀仏の誓願の不思議と念仏の不思議を分別する | 分けて考えません |
学解往生 | 経典を学ばなければ往生できない | 往生はできます |
専修賢善 | 本願に甘えて悪をおそれない | 悪は避けましょう |
念仏滅罪 | 一回の念仏で重い罪が消える | 消えません |
即身成仏 | 煩悩をそなえた身でこの世で悟りを開くことはできない | 往生はできます |
回心滅罪 | 悪を犯したら心を改めなければ往生はできない | 往生はできます |
辺地堕獄 | 自力で修行した人は浄土の端に往生し地獄に落ちる | 落ちません |
施量別報 | お布施の多少によって功徳に差がつく | 差はつきません |
上記を簡潔にまとめると、以下の2つはどちらとも極端である、ということです。
- 良い事だけをしなければ、極楽浄土に行くことはできない
- どんな悪いことをしても、極楽浄土に行くことができる
「南無阿弥陀仏」を唱えたから全ての悪が清算されるわけではありませんし、だからといって厳しすぎるくらいに自分を律する必要もないのです。
歎異鈔の役割
「歎異鈔」の存在意義とはなんでしょうか?
それは思想の方向性の再確認でしょう。
宗教にはとても強力な力が秘められています。
多くの人を救うことができる分、差別性や暴力性、その他邪悪な力を秘めていることもまた事実です。
一辺倒な宗教信仰は争いを生み出します。
中世ヨーロッパでの宗教戦争などは、まさにその具体例となります。
そんな宗教の本来の方向性や解釈を再確認するために、「歎異鈔」は存在しているのです。
人間は自分にとって都合の良い情報を集めがちです。
その宗教が意図していない、間違った解釈をしている可能性もあります。
そんな自分なりの解釈を正すために、この本は書かれたのです。
親鸞「歎異鈔」まとめ
親鸞は「歎異鈔」を通して、誰もが救われるような教えを説きました。
それはまさに万人救済の思想であり、結果的に広く日本に広まっていきました。
彼の教えにより、多くの人が救われたのです。
以下この記事のまとめです。
- 親鸞とは、鎌倉時代の仏教家である
- 歎異鈔には、浄土真宗の正しい教えと、異義に対する弁明が書かれている
- 浄土真宗は万人救済の思想(難行ではなく易行、自力ではなく他力)である
- 悪人(自らの力で悟りを開けない人)こそが救われる
- 極端に考え方はいずれにせよ、間違った解釈である
- 歎異鈔の役割とは、宗教の正しい方向性を再確認させること
ぜひ参考にしてみてください😆
コメント