教養を身に着ける
詳細はこちら

アルベルト・シュバイツァーの歴史と名言を分かりやすく解説

オススメ記事
この記事は約11分で読めます。
スポンサーリンク

自らの恵まれた環境を捨て、当時暗黒大陸であったアフリカの病人たちを救うことに尽くしたアルベルト・シュバイツァー。

彼の”自らを捨て他人のために尽くす姿勢”は非常に評価され、1952年にはノーベル平和賞を受賞しています。

アフリカのランバレネでの活動の中で導き出した”生命への畏敬”という概念は、世界平和を生み出すための1つの重要なアイデアと言われています。

常人離れした彼の行動の裏にはどのような思いがあったのでしょうか?

この記事では、そんなアルベルト・シュバイツァーについて解説していきます。

スポンサーリンク

アルベルト・シュバイツァーの生涯

アルベルト・シュバイツァーの生涯について解説していきます。

彼の人生は波乱万丈ながら、慈悲の心に溢れたものとなっています。

幼少期

1875年、アルベルト・シュバイツァーはドイツ領アルザス地方の田舎町で生まれます。

父親が牧師だったこともあり、非常に裕福な暮らしをしていたそうです。

そんな恵まれた生活をしていたシュバイツァーに衝撃を与えた出来事が発生します。

友人のゲオルグという少年と喧嘩をした際に、2人は取っ組み合いとなります。

そしてシュバイツァーがゲオルグを押し倒し、喧嘩に決着がついたかと思われました。

その時ゲオルグがこう叫んだのです。

「お前のように肉のスープを週に二回食べれたら、負けはしない」

シュバイツァーは愕然としました。

「自分は恵まれた生活をしており、ゲオルグは恵まれない生活をしている。」

「境遇の違いによってこんなにも違いが生まれるのか」

シュバイツァーはそんな格差を目の当たりにしたのです。

彼はその後肉のスープを飲むことはなくなりました。

学校の成績は普通というよむしろ良くないほうだったシュバイツァーですが、1つだけ良くできる科目がありました。

それが音楽です。

幼いころから教会に通っていたことが功を奏したのか、音楽だけは非常に優れていたようです。

青年期

高校に入学するシュバイツァーですが、やはり成績は良くなかったそうです。

一時は退学告知までくるレベルまで低かったそうです。

しかし何とか卒業することができたシュバイツァーは、ストラスブール大学に入学します。

そこでは哲学神学を主に学びました。

また、類まれなる音楽の才能を評価され、ビドールという有名な奏者の元でオルガンの勉強もします。

彼の未来は非常に明るいものでした。

哲学の教授、オルガン奏者、牧師といくつもの将来像が彼の中にはありました。

ただ彼の中にはいつも1つの疑問がありました。

それは、

自分だけこんなに幸福でいいのだろうか?

というものです。

キリスト教の聖書を愛読していたシュバイツァーは、その教えを学ぶうちに、

自分だけの幸福で満足してもいいのか?

と思い始めます。

結果的に21歳のシュバイツァーは、30歳までは音楽と勉強に力を入れることを誓います。

その後は24歳で哲学博士、27歳で神学部の教師になり、オルガンもかなりの腕となります。

運命の30歳

日々の生活の中でシュバイツァーはふと、パリ宣教師教会の報告書に目を通します。

そこには厳しい風土で苦しむアフリカの人々の姿が描かれていました。

病気に苦しめられているアフリカの人々の現状を知ったシュバイツァーは、自分が行くべきはここだ、と感じました。

ちなみに当時のアフリカ大陸は全く開拓が進んでおらず、疫病も蔓延していたため、暗黒大陸と呼ばれていました。

シュバイツァーは彼らに必要なのは愛の教えの言葉ではなく、医療という実践だということを理解し、医者を志すようになります。

しかし30歳から医者になりたいといって、それに賛成してくれる人はほとんどいません。

彼は周りから多くの反対を受けました。

しかし、彼のアフリカで困っている人々へ貢献したいという強い想いは消えることはありません。

そんな中、へレーネ・ブラスラウという女性だけは賛同してくれました。

シュバイツァーの親友でもあった彼女は、後にシュバイツァーと結婚します。

彼の心を誰よりも理解していた彼女は、自分も力になろうと看護師の資格を得ます。

友人や教会からお金を募り、オルガン奏者としてもお金を集めたシュバイツァーは、38歳にしてついに、アフリカ行きの準備が整います。

ガボンへの旅立ち

1913年、ついにシュバイツァーと夫人はアフリカのガボン、ランバレネ村に到着します。

医療の知見を持っていた彼らでしたが、診療は非常に大変なものだったそうです。

当時のアフリカでは多くの病気が蔓延しており、像皮病、眠り病などの風土病も数多くありました。

そしてこれらの病気の治療よりも難しいものがありました。

それが文化の違いです。

ドイツの裕福な家庭に生まれたシュバイツァーと、アフリカのガボンで生まれ育った人々の間には、どうしても文化的な違いが生まれてしまったのです。

しかし、彼は言葉をも超える哀れみの心をもってそれに立ち向かいます。

キリストの愛の教えを忠実にこなしていくのです。

第一次世界大戦

ガボンでの献身的な医療支援を続けるシュバイツァーでしたが、不運が訪れます。

それが第一次世界大戦の勃発です。

当時のドイツとフランスは戦争状態にありました。

フランス領であったガボンにいたドイツ出身のシュバイツァー夫婦は、敵国人として捕虜にされてしまいます。

そうして42歳のシュバイツァーは捕虜収容所に入れられることになります。

しばらくして故郷であるアルザス地方に帰還したシュバイツァーは、また今まで通りのドイツでの生活を営み始めます。

娘も生まれ、家庭は円満、牧師や教師など職業にも困らず、十分に幸せに生きていく下地が彼にはありました。

しかし、もどかしさを感じていたのもまた事実でした。

当時のことを彼は

「家具の下に転がり込んだまま行方知れずになったコインのような感覚」

と表現しています。

じっくりと考えた結果、シュバイツァーはまたランバレネに行くことを決意します。

講演会と演奏会で資金を稼いだ彼は、妻と娘を置いて再出発します。

当時49歳です。

生命への畏敬

舟でランバレネへ向かう途中、彼はカバの群れを発見します。

そしてそれを見た瞬間、彼の中に1つのアイデアが生まれたのです。

それが「生命への畏敬」です。

ここからは彼が実際に話した内容をそのまま書き記します。

人間とは、生きようとする様々な生命にとりかこまれた、生きようとする生命である。

この事実を認めることによって、人は単に生きるのではなく、生命への畏敬を持つ。

生命に真の価値を見出そうとする。

このように考える人間は、自分の生命に対するのと同じように、あらゆるものの生命に畏敬の念を抱くことになるだろう。

人はこうして、自分の生命の中に他者の生命を体験するのである。

それ故に、人間にとって、生命を維持し、最高の位置に高めることが善となる。

逆に言えば、人間にとっての悪とは、生命を傷つけ破壊することである。

シュバイツァーは、自分の生命の中に他者の生命を感じる、という新たな概念を生み出したのでした。

この考えは利他の精神を存分に含んでおり、キリストの隣人愛釈迦の慈悲の心孔子の仁、と同じようなニュアンスを持ちます。

7年ぶりにランバレネに帰還したシュバイツァーは、その荒れっぷりに驚きます。

戦争があったこともあり、地域は荒れ果てていたのです。

彼はヨーロッパで資金を集め、アフリカで病院を建設することを継続します。

ノーベル平和賞の受賞

やっとアフリカに戻ってきたシュバイツァーでしたが、またもや不運が起こります。

それは第二次世界大戦の勃発です。

世界情勢が不安定になり、シュバイツァーの活動もまた先が読めない状態になってしまいます。

しかし、そこに救世主が現れます。

それはシュバイツァーの奥さんであるへレーネです。

病気のためドイツで療養中だった彼女は無事に元気を取り戻し、アフリカまで駆けつけたのでした。

妻の援助もあり、どうにかピンチを乗り越えたシュバイツァーでした。

そして、彼の素晴らしい活動はだんだんと世界中に知れ渡っていきます。

彼の活動に賛同し、世界中から人が集まってくるようになるのです。

医師や看護師など、ありとあらゆる人材が集まるようになり、ランバレネの医療環境はどんどんと強化されていきました。

その中には高橋功さん(故)などの日本人もいました。

そして1952年、ついにシュバイツァーはノーベル平和賞を受賞します。

彼の努力はついに世界中で認められたのでした。

ノーベル平和賞の賞金は、ランバレネの病院へと寄付されました。

晩年

1957年、79歳にしてシュバイツァーの奥さんであるへレーネが死去します。

悲しみにくれながらもシュバイツァーは継続して、アフリカの地への貢献をし続けます。

そして1965年、90歳にしてシュバイツァーも病のため死去します。

彼が晩年に残した言葉を記します。

自分にとってどんな価値があるかが問題なのではない。

生命そのものが神聖なのである。

虫が灯りに集まり、羽を焦がして落ちるのを見るよりは、むしろ窓を締め切って我慢する。

雨上がりの地面にみみずを見れば、太陽が照り輝く前に、湿地に戻ればいいと気遣ってやる。

これを人は、感傷と呼ぶかもしれない。

しかし、私は恐れない。

認められるまでは、嘲笑される。

これは真理の常である。

私が「生命」というものの真の意味を見つけた土地、ランバレネ

人は誰でも、自分のランバレネを持つことができる。

スポンサーリンク

アルベルト・シュバイツァーの名言

wikipedia参照

哲学者でもあったシュバイツァーの言葉は、非常に機知に富んでいます。

成功は幸せの鍵ではない。幸せが成功の鍵だ。

もし自分のしていることが大好きなら、あなたは成功する。

アルベルト・シュバイツァー

これは世の常でもあります。

大好きなことをしているときは、それに費やした時間は努力にはなりません。

ただ夢中で取り組んでいるだけなので、そこに苦痛はないのです。

だからこそ、大好きなことに夢中で取り組み、幸せを感じることが、一番の成功の鍵なのです。

人のために生きる時、人生はより困難になる。

しかし、より豊かで幸せにもなれる。

アルベルト・シュバイツァー

これは誰よりも人のために生きたシュバイツァーだからこそ言える言葉です。

他者貢献の思想は世界に平和をもたらします。

成功の最大の秘訣は、他人や状況に振り回されない人間になることだ。

アルベルト・シュバイツァー

30歳で医者になる決意をしたときに、シュバイツァーは多くの人から反対されました。

そこには両親も含まれています。

それでも自分の信念に従って生きること、それが重要なのです。

世界中どこであろうと、振り返ればあなたを必要とする人がいる。

アルベルト・シュバイツァー

”自分は価値のある人間だ”と理解することはとても大切です。

そして、この世に生まれた全ての人間にはみな等しく価値があります。

あなたがいるからこそ世界は成り立つことができるのです。

あなたは価値のある人間です。

人生の目的は奉仕であり、慈悲と他者を助ける強い意志を示すことである。

アルベルト・シュバイツァー

将来の夢や目標は人それぞれ違うものです。

しかし、それらをたどっていくと最終的にはこの他者貢献につながるのではないでしょうか?

人間は自分に起こった問題を環境のせいにする癖を止めねばならぬ。

そして自分の意志(信念と道徳に基づく自分自身の取るべき道)を訓練することを再び学ぶべきだ。

アルベルト・シュバイツァー

未来も運命も、創り上げているのはあなた自身です。

あなたが想像する通りの人間にあなたはなるのです。

だからこそ、自分の意志、マインドセットを磨くことを心掛けましょう。

物事に関心がなくなり、真面目さや憧れ、情熱、熱意などを失いかけていることに少しでも気付いたら、病気の前触れだと考えなければならない。

表面的に流されている生活に魂が苦しんでいると気付かなくてはならない。

アルベルト・シュバイツァー

自分のやりたいことができない生活を続けると、魂が苦しみ始めます。

もしそれに気付くことができなかったら、それは身体に病として表現されます。

あなたの魂や心を大切にしましょう。

人生の惨めさから抜け出す慰めは2つある。音楽と猫だ。

アルベルト・シュバイツァー

音楽とネコは素晴らしいです(笑)

認められるまでは嘲笑される。これは真理の常である。

アルベルト・シュバイツァー

結果が出るまでは、そんな絵空事は絶対に達成できない、と笑われます。

笑われていきましょう!

世界の快癒はいろいろな処置をほどこすことによってではなく、

ものの考え方を改めることによってもたらされるのだと世界自身が気づくときに、

ようやく世界は立ちなおることができよう。

アルベルト・シュバイツァー

全ての現象を引き起こしているのは、我々の心です。

あなたの思考、マインドセット、考え方、これらが全ての感情の変化を引き起こし、身体に病を引き起こすのです。

あなたの思考を変えることが、全ての病の万能薬になります。

毎日誰かのために何かをしなさい。見返りを求めずに。

アルベルト・シュバイツァー

生命への畏敬を理解し、自分の生命の中に他者の生命を感じましょう

そして他者の生命のために尽くしましょう。

それは自分の幸福へと繋がります。

スポンサーリンク

最後に

アルベルト・シュバイツァーは誰よりも慈しみの心をもって、誰かのために尽くし続けた人物です。

彼の”生命への畏敬”という概念は、世界に平和をもたらすことができる素晴らしい考え方です。

ぜひ参考にしてみて下さい。

コメント