鎌倉時代に禅の教えを日本に広め、曹洞宗を開いた道元。
彼の著書に「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」というものがあります。
彼の仏教に対する哲学的解釈と、禅の思想の根本を知ることができる素晴らしい書物です。
この記事では、そんな道元「正法眼蔵」について分かりやすく解説していきます。
道元とは
道元(1200-1253)は鎌倉時代の禅僧です。
日本文化に禅の思想を根付かせた張本人であり、曹洞宗の開祖でもあります。
仏教をより哲学的に解釈したことでも有名であり、哲学者から研究対象にされることもあります。
名門貴族生まれの道元は、将来は政治家になることを運命づけられていた人物でした。
若くして両親を失ってしまった彼は、14歳にして出家を決意します。
しかし、どんなに修行をしても、彼の中には1つの疑問が浮かんでいました。
それが、人間はみな仏性を持っているとお釈迦様は言っているのに、なぜ修行をしなければいけないのか?というものです。
彼はその答えを探しに24歳で宋に渡ります。
宋で多くのことを学んだ道元は日本に帰国後、禅の教えを広めていきます。
曹洞宗を開いたり、永平寺に籠って弟子を養成したりと、非常に精力的に行動します。
その中で彼は、仏教に関する哲学を集約した著書「正法眼蔵」を描きます。
道元「正法眼蔵」の解説
正法眼蔵とは禅僧である道元が書いた書物であり、彼の哲学的な仏教解釈が記されている本になります。
非常に大作であり、江戸時代には95巻にまで膨れ上がったとされています。
タイトルの「正法眼蔵」には、釈迦が説いた正しい教えや知恵を収めたもの、という意味が込められています。
正法眼蔵 ー 釈迦が説いた正しい教えや知恵を収めたもの
正法 = 釈迦が説いた正しい教え
眼 = 智慧(知恵)
蔵 = 蔵に収められているもの
身心脱落
道元の考える仏教の中心思想は”身心脱落”です。
身心脱落とは、身も心も捨て去ることを指します。
身心脱落とは、自我意識を捨てて悟りの世界に到達すること
道元は、人間の悩みの根源は自我意識にあると考えました。
我々は自我という意識を持っているから、お互いにいがみ合ったり悩んだりするのです。
だからこそ道元は、自我を捨て去り、身も捨て去ることで、悟りの世界へ行けると考えたのです。
この世界は既に悟りの世界である
自我意識を捨てることが悟りの世界に繋がることは分かりました。
しかし、ここで1つの疑問が生じます。
それが、
- 悟りを開きたい!
- 悟りの世界に行きたい!
- 悩みをなくしたい!
上記のような願いも自我意識に含まれるのではないか?というものです。
道元はこの主張は正しいと考えました。
悟りの世界に行って悩みから解放されたい!という感情を持っている時点で自我意識を捨てきれていません。
自我意識を捨てきれていないということは、悟りの境地にも至れないのです。
だから道元は、全てを悟りの世界に合一しようとしました。
悟りたい!という邪心を捨て、自分は既に身心脱落して仏になったつもりで生きるべきだと唱えたのです。
宗教評論家のひろさちやさんは、これを角砂糖に例えて説明しています。
角砂糖(自我意識)をお湯(悟りの世界)に放り込むと、角砂糖は溶けてなくなります。
自分が身心脱落したつもりで生きることで、お湯に角砂糖を入れることができます。
そうすると、角砂糖は溶けてなくなっていくのです。
このように、悟りの世界に自分を放り込むことで、身心脱落の境地に至ろうとしたのが道元の教えなのです。
迷いと悟りは表裏一体
道元は迷いと悟りを表裏一体のものであると考えました。
迷いと悟りはコインの裏表のような関係性であり、どっちかが良い、どっちかが悪いなどはないと考えます。
悩みがあるから悟りを定義することができ、悟りがあるから悩みを定義することができるのです。
これを理解すると、我々は本当は悟りの世界にいるのにも関わらず、ひたすらに悩み迷っていることが分かります。
道元はそんな現状に対して、迷うときはとことん迷うべきだと考えます。
前章で解説した通り、悟りを開きたい!という思いは自我意識であるため、それを持っている限りは悩みから解放されることがありません。
そうではなく、今迷っているのなら、それに集中してとことん迷うべきなのです。
迷いを避けず、悟りを願わずに、目の前の現実に立ち向かっていると、迷いを離れる手立てができるのです。
なりきる
道元の思想を理解するためのキーワードに”なりきる”というものがあります。
自分以外の何かになりきることが、彼の教えで非常に重要な役割を果たします。
迷いを避けず、悟りを願わず、でも目の前の現実に集中して生きること大事であることを前章で述べました。
そして、ここで”なりきる”という要素が重要になってきます。
大切なのは自分が悟りの世界に生きているかのようになりきることです。
つまり、仏になりきるということが、道元の教えの神髄なのです。
自我意識を用いて何かに執着するのではなく、そもそも理想的な存在になりきってしまうことが、彼の教えの中心思想なのです。
一度整理しましょう。
道元の教えは、信じるという自力の行いをすることで、仏によって救われる(他力)というものです。
そして、信じるという行為をするために自我意識を使ってはいけません。
自我意識をなくすことが悟りの目指すゴールだからです。
だからこそ、道元は”なりきる”という概念を用いました。
自分が既に悟りの境地に至ったかのように行動することで、気付いたら信じるという自力の行いを完了していて、仏によって救われている、ということです。
全てが仏性を有する
道元は全宇宙が仏性を有していると考えました。
仏性とは、仏の性質・仏になる可能性を指します。
仏性とは、仏の性質や、仏になる可能性を意味する
この世の生きとし生けるもの全て(衆生)が仏性を有している、そしてそれらは全て等価値である、という思想は仏教界においても非常にユニークなものでした。
仏教の伝統的解釈では、仏性は育てるものであり、それぞれ違った大きさのものを持っている、という理解をしていました。
しかし、道元はそれを否定したのです。
人間も動物も種も花も全てが仏性を有しており、全てが等しく価値があると考えました。
無仏性を有する
道元は仏性を所有しない、という概念は存在しないと考えました。
だからこそ彼は、無仏性を有する、という解釈をします。
無仏性という仏性を持っている、ないがある、という理解の仕方です。
ようは、全てが仏性であることを、手を変え品を変え表現しているのです。
全てが仏性を所持しているので、等しく仏様によって救われる、ということを説いたのです。
現在しか存在しない
道元の時間に対する解釈は、現在のみが存在する、というものです。
過去も未来も自分の頭の中にしか存在せず、現在しか人間は生きることができない、という解釈です。
それを踏まえて、現在をしっかりと生きることが大切である、と彼は主張します。
全ての存在は等しく仏性を有します。
子供であっても、成人であっても、老人であっても、等しく仏性を有します。
種であっても、つぼみであっても、花を咲かせていても、全ては等しく仏性を持っているのです。
だから、自分がどんな状況に置かれていても、しっかりと現在を生きればいいのです。
つぼみはつぼみらしく生きればいいし、花は花らしく生きればいいし、あなたはあなたらしく生きればいいのです。
自分はまだ種だから、つぼみだから、と考える必要はありません。
全ては等しく仏性を有しています。
種やつぼみの状態の”現在”をしっかりと生きることが、悟りの世界に繋がっていくのです。
以下お釈迦様の言葉です。
過去を追うな。未来を願うな。
過去は過ぎ去ったものであり、
未来はまら到(いた)っていない。
今なすべきことを努力してなせ
中部経典
道元「正法眼蔵」まとめ
道元の教えの中心思想について解説しました。
仏になりきることで身心脱落して、悟りの境地を目指すこと、全てが仏性を有することを知って、現在を全力で生きること、どれも現代に通ずる教えです。
彼の教えはまだまだ沢山あるので(八大人覚など)、興味がある方は調べてみてください。
以下この記事のまとめです。
- 道元とは、鎌倉時代の禅僧であり、曹洞宗の開祖でもある。
- 身心脱落とは、自我意識をなくし、悟りの境地を目指すことである
- 迷いと悟りは裏表一体である
- なりきることで、自我意識を用いらずとも悟りを目指せる
- 生きとし生けるもの全てが仏性を有する
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