第二次世界大戦後の日本の思想界に大きな影響を与えた坂口安吾。
彼の著書である「堕落論」には、そんな彼の思想が色濃く示されています。
与えられた道徳や規定を全て否定し、人間が生きていくことを何よりも主張した彼の思想は、現代の私たちを大きく励ましてくれます。
この記事では、そんな坂口安吾「堕落論」について解説していきます😆
坂口安吾とは
坂口安吾(1906-1955)は日本の小説家・批評家です。
純文学から推理小説、思想書まであらゆる分野の本を出版しています。
終戦以降「堕落論」「白痴」などの作品を発表し、太宰治などと共に時代の寵児となりました。
坂口は明治39年(1906年)に新潟で生まれました。
家は地域の名家であり、父親は衆議院議員で冷徹、そんな特殊な環境で育ちます。
結果的にいくつもの問題を学校で起こし、中学は追い出されていしまいます。
そんな彼は、大学で仏教・インド哲学・フランス文学などに傾倒していきます。
彼自身の独特な文学を作り上げていったのです。
彼は終戦後「堕落論」を出版し、一躍有名になります。
言葉や思想から彼の強気な姿勢が垣間見えますが、その裏には切なさや悲しさがあったと言われています。
仕事の不安は覚醒剤で消す、眠れないなら睡眠薬を大量に摂取する、そんな生活を営んでいました。
少なくない敵を作り、常に何かと戦い続け、悩んだら酒と薬で書き消す、そんな人間だったようです。
坂口安吾「堕落論」の時代背景
坂口が「堕落論」を出版した当時は、終戦直後でした。
今まで正しいとされてきた道徳や規範は全て壊され、まったく先の見えない状態でした。
ずっと”お国のために”と戦い続けてきた日本国民は、突如敗北を宣言され、路頭に迷っていたのです。
そんな時代背景の中で、「堕落論」は大きな役割を果たします。
何にも頼らない、自らの力で道を切り拓く、という新たな生き方を提案したのです。
多くの人が彼の言葉に勇気づけられました。
そんな既存の制度や枠組みに囚われないで、自らの力で人生を切り拓いてく思想の流行は、決して日本だけのムーブメントではありません。
ヨーロッパでは、JPサルトルの実存主義が大きな支持を得ていました。
サルトルの実存主義についてはこちらの記事で詳しく解説しています。
坂口安吾「堕落論」の解説
「堕落論」は坂口安吾の代表作であり、敗戦直後の日本人に「堕落」を説いたエッセイです。
当時は戦後の混乱に乗じて、無頼派と呼ばれる、何にも頼らずに生きているごろつきのような存在が生まれました。
彼らのような世間の道徳から外れてしまった人々の主張を代弁しているのが「堕落論」です。
以降、「堕落論」の内容について解説していきます。
堕落する
そもそも堕落とはいったい何でしょうか?
日本人は戦争中、色々な道徳観によって縛られていました。
武士道に従った生き方をする、皇国史観(天皇制)、貞節は守る、などです。
堕落とは、これらのような自分という存在を縛る観念を全て捨て、解放されることです。
堕落とは、自分を縛る観念を捨てて、自由に生きること
当時の日本人は戦争が終わって、頭が真っ白になっていました。
今まで信じてきたものが全て崩れ去り、信じる対象がなくなってしまったからです。
坂口は、そんな人々を肯定します。
無条件で思考停止で何かを盲目的に信じていた状態から、既存の枠組みから解放されて堕落している人々が素晴らしく見えたのです。
だからこそ、彼は”自分たちで自分たちの生き方を見つけること”を強く勧めます。
与えられた道徳
戦時中、日本人の多くは与えられた道徳によって縛り付けられる生活をしていました。
その中でも彼が特に注目したのが、貞節・武士道・皇国史観(天皇制)です。
それぞれがどのようにして日本人を縛っていたかは、以下の通りです。
貞節 ー 夫が戦争に行っている女性は、貞節を守るべき
武士道 ー 国のために死ぬことは美徳である
皇国史観 ー 日本がよければそれでいい、という独善的な思想
軍国主義教育では、これらの大切さを強く説かれ、多くの人はこれらの観念・道徳を無条件で信仰していました。
どんなに人が亡くなっても、それは素晴らしいことだと賞賛するし、近所の女性が夫以外の人に好意を持とうものなら、総叩きにしました。
多くの日本人は、そんな与えられた道徳に従って生きることが美しく素晴らしい人生であると信じていたのです。
しかし、戦争が終わった瞬間、これらは自分を思考停止させていた幻影だったことを知ります。
誰かが勝手に生み出した観念に便乗していただけで、実は自分の思想が全くそこにはなかったことを知るのです。
冷静に考えれば、人が死ななければいけないのはどう考えても間違っています。
しかし、思考停止で生きていた人々はそれを賞賛していたのです。
そんな与えられた道徳から目覚め、初めて自分の力で生きていくことを、堕落と呼ぶのです。
堕落とは一人荒野を生きることである
社会的な観念・道徳・規範などから逸脱する生き方は簡単ではありません。
坂口はこれを、まるで1人荒野を生きるようなものである、と表現します。
堕落するとは、自分に正直に生きるということです。
規範を捨て、自分の好きなものには好きと伝え、自分の心の向くままに生きるのです。
先ず裸となり、囚われたるタブーをすて、己れの真実の声を求めよ
坂口安吾「続堕落論」
今まで自分が積み上げてきた固定観念をはがしていく作業は、自分の身体の皮をはがすような苦しみを伴います。
見たくなかった厳しい現実を目の当たりのするかもしれません。
本当の自分の姿を知れば、あなたは絶望するかもしれません。
覚悟がないなら堕落はするべきではないでしょう。
堕落するとは、社会から転落し、孤独の中、地獄の荒野を生きるということなのです。
人間復活の条件
堕落とはとても覚悟のいる行為です。
しかし、それは人間復活のための第一条件でもあります。
人間は社会の規範ではなく、自分自身と向きあって生きることで、天国へと向かうことができるのです。
日本人は堕落しなければならない、と坂口は説きます。
なぜなら、堕落をしないと、昔日の欺瞞に満ちた国に戻ってしまうからです。
絶えず自分に問いかけ、荒野を生きることができる人間なら、与えられた道徳や観念であっても見破ることができます。
普遍的な道徳性に観念を当てはめ、それが本当に正しいことなのかを考えることができるのです。
法隆寺よりも停車場
坂口は思想やイデオロギーに頼るのではなく、生身の人間として生きることに価値を感じます。
だからこそ、”法隆寺よりも停車場”と表現したのです。
法隆寺は立派で歴史もあり、外観も素晴らしいです。
しかし、法隆寺は生身の人間の役には立っていません。
伝統の美しさは尊ばれるべきです、しかし、我々が本当に優先するべきなのは実生活である、と坂口は主張します。
だからこそ、我々が生きていくために本当に必要であれば法隆寺を壊して停車場にしても構わない、という発言をしたのです。
美しさを考えずに、無我夢中で生命をぶつけているものにこそ、美しさは宿る、と坂口は考えます。
彼が美しさを感じたものは以下のようなものです。
- 小菅刑務所
- ドライアイス工場
- 駆逐艦
これらはただ機能だけを追求した結果に完成したものです。
人間が真に必要だと考え、作られたものなら何でも、そこに真の美が宿ります。
形式や思想だけに囚われて作られたものには価値はないのです。
心の底から本当にやりたいことなのであれば、そこに美が生まれるのです。
生きよ堕ちよ
与えられた観念や思想、形式や道徳などは全て捨て、生身で裸のあなたが本当に望むことをやりましょう。
あなたが心のそこからやりたいことはなんですか?
全てを失ってでも挑戦したいことはなんですか?
どんなに高尚で素晴らしい観念だって、いつかは崩壊してしまいます。
思考停止で何かに頼って生きることは非常に楽ですが、それでは人類は同じ過ちを繰り返してしまいます。
だからこそ、孤独で危険な地獄の荒野を生きる必要があるのです。
全生命をぶつけて本気で生きているのなら、そこには美しさが生まれます。
地獄の荒野の先に、希望に満ちた世界が広がっているのです。
坂口安吾「堕落論」まとめ
坂口安吾は彼の著書「堕落論」を通して、与えられた思想や観念に囚われないで生きること、つまり堕落すること、を人々に勧めます。
人類が二度と同じ過ちを繰り返さないために、平和で素晴らしい世界を作るために、真の幸福を得るために、彼は人生をかけて「堕落」の思想を説いたのでした。
ぜひ参考にしてみてください😆
- 坂口安吾とは、日本の小説家・評論家である。
- 「堕落論」は終戦直後の日本で出版され、多くの人に影響を与えた。
- 堕落とは、自分を縛る観念を捨てて、与えれた道徳を盲目的に信じることを避け、自由に生きることを指す
- 思想や伝統ではなく、実際の生活を優先に考えるべきである、つまり必要であれば法隆寺よりも停車場を優先する
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